サフェット・”スラヴコ”・ボスキッチ





■サフェット・ボスキッチ(撃墜13機)
 サフェット・「スラヴコ」・ボスキッチ。
 1909年1月31日、フォイニツァ生まれ。ムスリム
 1932年飛行学校修了、1935年軍パイロット、1938年戦闘機パイロットに着任。
(1941年4月10日ドイツ軍ザグレヴ入城。19日クロアチア国軍設立発表。6月22日バルバロッサ作戦開始。6月27日クロアチア兵団設立発表。7月12日クロアチア航空兵団創設――隊服、軍規、装備、指揮、全てがドイツ軍の下に一本化されたほぼ「外人部隊」)
 1941年7月、軍曹としてZNDH(クロアチア独立国空軍)に入隊。7月19から約2ヶ月間あった飛行学校での戦闘訓練(全21名)に参加していると思われます。
 間もなくHZL(クロアチア航空兵団)に移動。
 9月28日第一陣として送られる10名のパイロットに選ばれ、フュルトからウクライナへ。この時点でサフェットは准尉。装備はBf-109E「エーミール」9機、Bf-109F「フリードリヒ」1機。
(他11名のパイロットは更に訓練を続け、12月16日に陸路で到着)
 撃墜戦果(確認13、未確認3、地上撃破1)は41年9月28日〜42年11月までのうち、第一次戦闘配備期間において挙げられたもの。
 42年10月、少尉に昇進。
 翌年春、技術担当将校に任命。第一航空機空輸航空団に勤務した後、43年12月、Kro JGr1(?)本部付き技術担当将校に転任し、翌年7月にはHZS(クロアチア空軍飛行隊)全体の技術担当将校に。44年秋、ウィーン付近に設置された第二技術中隊の指揮官となる。
 44年12月、中尉に昇進。
 他の将校よりも長くクロアチア兵団に勤務したと記述があります。対戦終結時に捕虜となり、45年7月に釈放。その後はザグレブに暮らし、地域の飛行クラブで活動。
 パイロット訓練コースでの成績が優秀だったので、いくつ者飛行訓練学校でインストラクターとして活躍したそうです。
 1980年死去。
 
 他、本文から印象的なシーンを。
 同僚アウビン・スタルツィの証言。
 42年夏、彼は「スラヴコ」・ボスキッチと並んで飛んでいた。
 平穏なパトロールを終えてそろそろ基地に引き揚げようとした時、スラヴコが低空を飛ぶLaGGを発見した。
 スラヴコは素早く降下して射撃位置についたが撃たず、ロシア機に隣接して飛んだ。スラヴコがコックピットを覗くと、飛行帽も被っていない、17歳くらいのブロンドの少年がコックピットに座っていた。
 彼は呆然とした表情の少年に手を振ると、敵機から離れた。
 着陸後、アウビンが何故撃たなかったのかを尋ねると、彼は「子供を殺すことはできなかった」と答えた。
 
 ハイクに書き込んだクロアチアエースの一人についてのデータ。メモ代わりに。
 内容の殆どは「オスプレイ軍用機シリーズ44 クロアチア空軍のメッサーシュミットBf109エース」からの引用。
 P.42まで読んだ時点での内容。後から他にも見つかれば追記する(←忘れないこと)